10月に入って

思いがけず健康に問題がある事が分かった。
二、三年前から体調に不安を感じる事が増えてはいた。

若い頃は、風邪気味かなと思っても一晩ぐっすり眠れば朝には治っていたのに、年のせいか軽い風邪でもぐずぐずと長引いたり、拗らせたりする事が多くなった。

いよいよ本格的に健康に気をつけないといけない年齢になったのだなと自覚もしていた。

だから年に一度の健康診断も検査項目の多い人間ドックを選んでいた。
そこで引っかかって精密検査を受けた。

何度かの検査を受けて、懸念していた最悪の結果ではなさそうだと半ば安心していたところに晴天の霹靂と言うか、全く予想もしていなかった病名が候補に挙がった。

でも冷静に思い返すと、思い当たる節はあった。
風邪でもないのに咳が続くとか
肺活量がパパの三分の一しかないとか。

ある意味、懸念していた最悪の病名よりも悪質で、先が読めない分この先一日一日をどう過ごして行くのがベターなのかが分からない。

まだ確定診断を受けたわけではないが、検査結果に出ている数値からは疑いようがない。

再検査を指示されたのは、その悪い数値が何かの間違いで出たものかもしれないからもう一度、との事だが、しっかりした検査機関で何かの間違いが起こるとも思えない。

これが自分の事ではなく大事な家族の事なら心配で不安で、どうしようもなく不安で眠れない毎日になった事だろう。

でも自分の事が大事ではないと言うわけではないが、自覚症状が余りないので怖い病気と言う実感がない。

病状が進むと相当苦しい病気だと言われても、今苦しくないので実感がわかない。

平均的な余命も統計上は出ていて、数字だけを見れば悲観的だが、実感がないので他人事のようで、焦る気持ちや悲しい気持ちは湧いてこない。

鈍いのか冷静なのか、どちらにしても、追い詰められた気持ちになっていないのは有難い。

でも心配は心配なので、一心寺に行った。
二日続けて。

いつものように父と母に助けてと頼みに。

間違いであってくれますようにと。

もし間違いでないなら、本当にその病気なら治して下さいと。

そして  もし治らないのなら苦しまない最期をと。

祈っている時に初めて実感が湧いてきた。

パパが寂しがるだろうな。
子供たちが悲しむだろうな。

可哀そうに 可哀そうに

最後に、私が居なくなってもみんなが仲良く楽しく暮らせますように

パパがいつも笑っていられますようにと。

仏様になったら、大切な人を見守る事が出来るのなら、私が居なくなっても、私がみんなを見守って幸せにしてあげる。

私が3歳の時に逝ってしまった実母の遺書に、死んでも魂となってずっと私のそばにいて、私の幸せを祈っていると書いてあったけれど。

だから私は幸せだったのかな。